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岡山孤児院のすべてを茶臼原(宮崎県)に

 ところで、岡山孤児院の分院として開かれ既に約60人が移住していた宮崎県の茶臼原の方だが、岡山孤児院創立20周年から3年後の明治43年(1910)、十次はこの茶臼原に岡山孤児院のすべてを移す決心をした。 いよいよここに一大理想郷を建設しようというのである。

 取り壊した資材を船に満載し、岡山市を流れる旭川の河口から、瀬戸内海、豊後水道を経て、日向灘の荒波を乗り切り、宮崎県高鍋町小丸川河口の蚊口浦港に陸揚げする
 さらにそこから荷馬車で砂利と急坂の悪路8キロを茶臼原まで運んだ。
大変な事業であったが、屋根瓦から礎石に至るまで、こうして茶臼原に移されていった。

現存する当時の孤児院 珍しかった岡山の御影石と良質の瓦は、
高鍋の人々を驚かせたという。

(写真は、岡山から運んだ資材で建てられ
現在も残っている孤児院の建物)

 

 

 

日向灘の波

  帰国途上の所感

アゝ 美なるかな日向の地
予は実に爾を愛す
アゝ 壮なるかな太平洋
予は実に爾を愛す

南北四十里 東西二十里なる
日向の原野よ
爾は予等イスラエルのために
備えられたるカナンにあらずや

人間はその境遇によって
教育せらるるものとせば
爾高鍋よ 爾は予が
理想的人物を養成するに於いて
最も適当のところなり

アゝ 美なるかな尾鈴山
アゝ 壮なるかな太平洋

明治27年3月29日
石 井 十 次

 

帰国途上の所感の碑

上の写真は、石井十次が岡山孤児院を宮崎県茶臼原に移転する準備のため里帰りする船上で書いた所感を刻んだ碑。

宮崎県立高鍋高等学校正門右にある)

 


 移転は大正元年(1912)女子部をもって一応完了した。
 茶臼原の孤児たちは、十次の教えどおり、「働き、かつ学ぶ」日々を過ごした。
 互いに相信じ相愛すること、ともに労働すること、禁酒、禁煙を実行し、収入の十分の一を天倉(てんそう)に納めることをうたった「茶臼原憲法」を、孤児たちは守った。

十次の銅像

茶臼原憲法三章

一、天は父なり、人は同胞なれば、互いに相信じ、相愛すべきこと
二、天父は恒に働き給ふ、我等も倶に労働すべき
三、天恩感謝のため、我等は禁酒禁煙を實行し、収入の十分の一を天倉に納むること


 大正2年、茶臼原の孤児の数は350人、みんなで力を合わせ整備し作物を植え付けた土地は、次のとおりであった。

田     13町歩余
畑     46町歩余
桑畑    16町歩余

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